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ジェイテクト20周年座談会~想いをつなぎ、その先へ~
小村 武則(産機・軸受事業本部 試作部 部長)
今西 耕造(工作機械・システム事業本部 工作機械技術部 先行開発室第1課 上席プロフェッショナル)
田中 浩之(自動車事業本部 事業統括部 事業企画室駆動事業企画課 課長)
植杉 葵(営業本部 営業統括部 商務室商務課)

Interview
1921年創業の光洋精工と、1941年設立の豊田工機。
両社合わせて150 年の歴史を受け継ぎ、2006年にジェイテクトが誕生しました。
そして今年、ジェイテクトは20周年という節目を迎えました。
今回のJTEKT STORIESでは、光洋精工・豊田工機という“原点”を知る世代、合併の瞬間を「入社」として経験した世代、ジェイテクトを当たり前として育ってきた世代の四人が一堂に会し、これまでのジェイテクト、そしてこれからのジェイテクトへの想いを語りました。
(インタビュー日:2026年4月18日)
Main Theme
ジェイテクトと共に歩んだ時間
20年という時間は、会社にとっては一つの節目だが、そこで働く人にとっては、"人生の大切な時間"でもある。
今回の座談会に集まった四人は、年齢も、バックグラウンドも、ジェイテクトとの関わり方も違う。
バブル期の現場を知る人。「世界一の工作機械」を本気で追いかけてきた人。合併元年に社会人となり、ジェイテクトとともに大人になった人。そして、最初から「ジェイテクト」だった世代。
彼らの言葉の奥にある迷い、喜び、悔しさ、そして誇り。これこそが「ジェイテクト」という物語である。
Index
■それぞれの原点
■合併が生み出す効果―文化の融合、そして変化の手応え
■これからのジェイテクトに必要なもの―「継承」と「進化」のあいだで
■あなたにとって「ジェイテクト」とは?
それぞれの原点
人との出会いと同じように、会社との出会いにもそれぞれの理由がある。
「正直、人に言えるような理由ではないのですが・・・大きな会社に入社したかったのです。私は徳島県出身で、当時、地元の大きな会社と言えば光洋精工でした」と、控えめに話し始めたのは産機・軸受事業本部 試作部で部長を務める小村だ。
1987年に光洋精工に入社してから約40年、北米駐在や生産技術開発を経て、現職に至り、今年で定年を迎える。
小村は、ジェイテクト合併前の2005年に発足した「合併準備委員会」のメンバーとして光洋精工と豊田工機の生産技術部門の融合に従事した。この経験談は後ほど紹介したい。
1990年に豊田工機に入社し、工作機械・システム事業本部 工作機械技術部の上席プロフェッショナルである今西も、同じく今年定年を迎える。
バブル景気の名残が市場に残っていた入社当時、自動車は売れ、工場は常にフル稼働。「現場実習中は蒸気と熱気がすごくて、3か月で8Kgも痩せました」と笑いながら話すが、当時は余裕などなかったはずだ。
汗にまみれながら、手作業で製品の歪みを取る。自分の仕事がお客様の安全に直結する重みを身体で覚えた。
これまで10機種以上の工作機械を開発した今西。直近ではRP-EPS部品の加工機の開発を担当し、これまで一貫して開発に従事できて幸せだったと会社人生を振り返る。
自動車事業本部 事業統括部で駆動事業企画課の課長を務める田中は、2006年にジェイテクトに入社。合併という大きな変化を、社会人1年目で受け止めた世代だ。
学生時代に中国語を専攻していたため、グローバル企業に就職したいという思いで光洋精工を志望した。
「入社前に人事部から合併の話を聞いたときは "合併"という言葉にあまり良いイメージが無かったので、少し不安になりました」と言う。
しかし、冷静に調べていく中で、「これは守りではなく、攻めの合併なのだ」と考えが変わっていったようだ。
総勢351人の仲間を迎えた入社式は盛り上がりを見せ、期待に胸を膨らませた。
ジェイテクト最初の新入社員として、ジェイテクトの歴史と同じ時間を歩んでいくことになった。
これまで田中は豊橋工場の工務部、生産管理部などを経験。2年前にタイ駐在から帰任し、現職に至る。ステアリングや駆動製品関係の管理業務を長く経験する中での大失敗エピソードも赤裸々に明かしてくれた。
そして、ジェイテクトが10周年を迎えた2016年に入社した植杉。
技術力のある会社に入りたいという想いで、メーカーを中心に就職活動をしていた植杉は、参加した合同企業説明会でジェイテクトを知った。
これまで、文系は営業職というイメージを持っていたが、先輩社員と話す中でモノづくり企業には調達や生産管理など幅広い活躍の場があることを知り、パワーステアリング世界シェアNo.1など技術力の高さがあるジェイテクトに魅力を感じたと話す。
入社後8年間は工作機械事業の調達部や事業統括部を経験し、2024年の産休・育休復帰後より営業本部の営業統括部に所属する。
多様な部署への異動を経験しているからこそ得られた学びや、部署が異なっていても共通するマインドについて語ってくれた。
「私は、"光洋精工"とか"豊田工機"とか、ほとんど意識したことがありませんでした。最初から、ジェイテクトだったので」。
その植杉の言葉に、小村と今西は、「時代の流れもあるけれど、今と昔では会社の雰囲気は全然違うよね」と声を合わせた。
かつての光洋精工、豊田工機には、家族のような温かさがあったと懐かしむ。上司の家に食事に行き、運動会や社内行事で結束を深める。そんな"人の距離の近さ"が日常だったという。
一方で、仕事のスタイルは決して甘くない。「教わるのではなく、自分で学べ」。
先輩に質問に行けば、まず返ってくるのは「どこまで調べたの?」という言葉。資料もインターネットもない時代、書籍をくまなく読み漁り、先輩の背中を見て学ぶ。「常に世界一の工作機械をつくる」という気概と誇りにあふれる現場の中で、技術力は自ら掴み取るものだった。
今西の言葉に小村も、「当時の光洋精工も同じ雰囲気がありましたよ。いわゆる職人さんの"捨て育ち"のような。会議では『あの技術なら、あの人に聞いてみて』と、部署名ではなく個人名が挙がっていたので、私も同期や先輩も、各々の専門領域でのスペシャリストになることを目指して切磋琢磨していた」と頷く。
そして「今は社内の教育体系が整っているので、広く物事を考えられる、ゼネラリスト人財が育っていて頼もしいと思う」と続けた。
時代が変わり、教育体系は整備され、知識へのアクセスも増えた。
しかし変わらないものもある。
工場での厳しい実習、電話対応でつまずいた新人時代、設備のトラブル対応、判断ミス、伝達不足。 社会人としての成長の過程で誰もが、一度は逃げ出したくなる瞬間を経験している。
それでも頑張り続けてこられたのは、支えてくれる仲間がいたから。
思い出の一つ一つは、ジェイテクトの歴史の大切な一幕である。
合併が生み出す効果―文化の融合、そして変化の手応え
2006年、二つの会社は一つになった。
合併に向けて、現場ではどのような苦労があったのだろうか。
<2006年1月 株式会社ジェイテクト発足記念式典の様子>
光洋精工と豊田工機の合併が決まった2005年、「合併準備委員会」が発足した。
大阪市の光洋精工本社と刈谷市の豊田工機本社。その中間地点にある亀山工場の一つの会議室を1年間貸し切り、小村は両社の生産技術開発部門の融合に向けた動きに参画した。
当時の両社の印象について聞いてみると、光洋精工には「大きな町工場のような、個の技術力」、豊田工機には「トヨタグループの一角としての、組織での推進力」があったという。
それぞれの良さを持ち寄り、より良いものを選び取る、いわゆる"いいとこ取り"の融合が進んでいった。
「やり方が違う」、「考え方が違う」、「意思決定のプロセスが違う」。
かつては言葉が少なくても通じた。互いを知っている前提で話が進んだ。
しかし、組織が大きくなり、多様な人が集まる中で、「論理的に説明する力」が不可欠になっていく。
ときには、基礎から説明し直さなければ通じないこともあった。それでも、その"違い"こそが、やがて強さに変わっていく。
田中は旧品番からジェイテクト品番に置き換わっていくのを仕事で覚えていた。
小村は旧・光洋精工と旧・豊田工機出身の社員同士が業務で交流できるようなマネジメントを意識した。
品番統合、システム統合、人財交流。そうした地道な積み重ねが、"一つの会社"を形づくっていった。
今西は合併して最も良かったことに、工作機械に使うベアリングをこれまで商社経由で光洋精工から購入していたが、ジェイテクト製ベアリングとして使用できるようになったことだと話す。
単なる部品メーカーでもなければ、単なる設備メーカーでもない。
ジェイテクトのベアリングを、ジェイテクトの工作機械に搭載する。その工作機械で、ジェイテクトの自動車部品をつくる。
"すべてをつなげて価値を生み出す会社"という、ジェイテクトならではの存在意義が輪郭を帯び始めた瞬間だった。
さて、合併から10年が経過した頃、ジェイテクトは新たな壁に直面していた。
「社名が、光洋精工と豊田工機に比べると、まだ知られていなかったんです」。
地元に帰ると、「田中、どこで働いているんだっけ?」 「ジェイテクトだよ」 「え、ジェイ・・・?」と聞き返される。
そんな状況を打破するため、ジェイテクトでは2016年の設立10周年に向けて企業PRに力を入れた。
製品開発ストーリーの映像化、『歴史ある若い会社。ジェイテクト』をキャッチコピーにしたテレビCMや広告も積極的に打ち出す。
社員向けには『ジェイテクト10年史』の発行、社内報特別号、工場フェスティバルなど全国津々浦々で10周年企画を開催した。
中でも、満場一致で「思い出深かった」と話題に上ったのは、阪神甲子園球場とナゴヤドーム(現・バンテリンドームナゴヤ)で開催した「ジェイテクトナイター」だ。
新入社員としてこのイベントに参加した植杉。
会社の規模は従業員数や売上高の数字で理解していた。しかし、球場を埋める社員の熱気に「こんなにも多くの仲間に支えられている会社なのだ」と、ジェイテクトの魅力を改めて実感した。
社員の一体感、高揚感が確かにそこにはあった。
<ジェイテクトナイターの様子。スタンドにはJTEKT 10thの人文字>
いつしか、職場内で出身会社を意識しなくなっていった。
そして2022年には、ジェイテクトグループの社名を全て「ジェイテクト」を冠した社名に変更した。
アフターマーケット事業本部も立ち上がり、ジェイテクトグループ商材をお客様に提案するクロスセールスやグループ連携も活性化した。
この動きに植杉は、"ジェイテクトグループとして一体になる"という強い決意を感じたという。
ジェイテクト単体ではなく、ジェイテクトグループとして価値を生み出すことに大きく舵を切っていった。
「合併」によって、モノづくりや組織体制の変化だけでなく、企業文化も時間を掛けながら変化する。
中でも四人が共通して実感していたのは、「お客様のため」という価値観の浸透だ。これは2025年に策定した「ジェイテクトのMVV」にも受け継がれている。
<ジェイテクトのMVV>
植杉は先輩社員から、「お客様とは、ジェイテクト製品のユーザーだけでなく、自分の業務の後工程もお客様だ」と教わった。その言葉が仕事の捉え方を変えた。後工程の人が喜んでくれる仕事をしたいという想いが芽生えた瞬間だった。
その言葉に田中が「僕もそれ言おうと思ったのに!」と笑った。
生産管理の業務では、社内の関係者にどれだけスムーズに仕事を渡せるか、手戻りを無くすことができるかが重要。自分の仕事が誰につながっているのか、上司から口酸っぱく言われていたので、"お客様のため"は常に意識するようになったという。
「皆、仕事に着手する前に"山登り図"を使うようになったよね」と今西。
お客様や後工程を意識した仕事の進め方をするため、ジェイテクトでは「山登り図」というフレームワークを活用している。これによって業務の目的やゴールまでのプロセスをプロジェクトメンバーと共有できる。
<山登り図については近藤社長のnote『もっといい仕事"のためにジェイテクトで活用している仕事術』で詳しく紹介しているので、ぜひ参照いただきたい>
合併から20年、ジェイテクトとしての仕事の進め方や企業文化が確実に根付いている。
価値観は、行動として受け継がれていく。それこそが、組織の醍醐味なのだと感じさせられた。
これからのジェイテクトに必要なもの―「継承」と「進化」のあいだで
昨今、デジタル化が加速し、AIの活用は当たり前になった。仕事の進め方は日々更新され、"効率"は常に問い直されている。
時代に合わせた変化を積極的に取り入れてイノベーションを起こすことが求められる今だからこそ、ジェイテクトがこれからも進化していくために必要なものは何であるのか、四人に問いかけてみた.
驚くことに四人の回答は一致していた。それは「継承」だった。
「先人たちが時間をかけて築き上げてきた文化は、間違いなくジェイテクトの強みです。それを失わずに、どう進化させていくか。同じレベルを維持するだけでも、簡単なことではありません。経験を言語化して仕組みにし、次の世代に手渡していく必要があります」と田中が言葉を継いだ。
その田中の想いに、小村は「残りの会社生活が限られている中で、自分の知識や経験は、これからのジェイテクトを担う人たちに伝承していきたい」と語気を強めた。
そして続けた言葉は、これからの世代への静かなエールでもあった。
「上達の秘訣は、やはり好奇心です。すぐに成果を求めるのではなく、あらゆることに関心を持って、粘り強く取り組んでほしい」。
今西もまた、自身の経験を重ねる。
バブル崩壊やリーマンショック。幾度もの景気変動の影響で、工作機械の開発部門に新入社員が配属されない時期もあった。その間、今西は開発主担当として最前線に立ち続けてきた。
「10機種以上の工作機械を開発した経験は、自分の中にしかない財産です。この経験を、デジタルの力も使いながら、後進の育成に役立てるものとして残していきたい」。
今年で定年を迎える小村と今西だからこそ、言葉の端々に役割を次世代へ託していく覚悟がにじんでいた。
技術や文化を"守る"だけでは、時代の変化を乗り越えられない。しかし、"変える"ことだけを優先すれば、根を失う。
その両方を成立させるカギは、やはり"人"にある。どんな時代になっても、最後に価値を生むのは人。 本音で議論し、互いの専門性をぶつけ合い、より良い答えを見つけていく。その積み重ねが、組織を強くする。]
植杉は、多様な職場を経験してきた立場から、「改善文化の継承」という観点で次のように語る。
「業務の引き継ぎを受ける際、どの部署でも前任者から必ず『この仕事が不要だと思ったり、もっと良い進め方があると感じたりしたら教えてほしい』と言われてきました。
長く同じ業務に携わっていると、それが"当たり前"になり、本来見直すべきムダや非効率に気づきにくくなります。
『この仕事の目的は何か』、『そもそも本当に必要なのか』と問い続ける姿勢がジェイテクトには根付いているので、この改善の文化を、これからも大切にして、つないでいきたいと思います」。
四人の言葉から、タイパやコスパが重視される現代からすれば一見すると非効率に感じる過程の中にこそ、 確かな"価値"が宿っているのだと気付かされた。
ジェイテクトには独自の強みがある。 軸受、工作機械、自動車部品。それぞれ単体でも世界と戦える技術を、一つの企業として持ち合わせている。そして、部品も、設備も、現場も知る企業だからこそ実現できることがある。
それらをつなぎ、「ソリューション」として昇華できたとき、ジェイテクトはさらに大きな飛躍のステージへと進んでいく。
「継承」と「進化」。 その二つが交わるところに、新しい価値を生み出す原動力があるのかも知れない。
あなたにとって「ジェイテクト」とは?
今回の座談会では、四人に「思い出の品」を持ち寄ってもらいながら、自身にとってジェイテクトがどのような存在かを改めて振り返ってもらった。
その一つひとつには、それぞれの時間や葛藤、そして成長の軌跡が刻まれている。
植杉が手にしたのは、先述のジェイテクトナイターで配布されたネックストラップ。
今でも多くの社員が職場で身に着けている10周年ロゴの入ったこのネックストラップは、彼女にとって"会社とのつながり"を象徴するものだ。

「ジェイテクトは私にとって"視野を広げてくれる場所"です。様々な分野のプロがいて、自分の知らない視点に気付かされます」。
田中が取り出したのは「かんばん」と呼ばれる、部品や製品の管理カード。新入社員時代、補給部品への切り替えに伴う在庫調整で判断を誤り、大量の仕掛品を発生させてしまった。
「このかんばんは今でも持ち続けています。失敗を"良い仕事"に変えようという気持ちを思い出すためです。ジェイテクトは僕にとって社会人人生そのもの。自分を成長させてくれる場所ですね」。
今西は豊田工機50周年記念で贈られた腕時計と、2005年の新聞を広げた。
そこには「モノづくりは、人づくりだ。」というキャッチコピーとともに、自らが開発した機械と写る姿が掲載されている。
押し入れにしまい込み、長く忘れていたその新聞。今回の対談を機に手に取る中で、当時それを見て喜んでくれた両親の笑顔がよみがえった。
「人生の半分以上が会社生活です。ジェイテクトは、今では家庭と同じくらい居心地の良い場所になったと感じています」。
小村が抱えていたのはアメリカ・サウスカロライナ州の形をした木版。
入社10年目の1996年、サウスカロライナ州の工場から帰任する際、現地の仲間たちから贈られた寄せ書きだ。
遠い異国の地で、頼れるのはともに働く仲間たちだけだった。現地のソフトボールチームで地域大会に優勝した日の記憶も、今なお鮮明に残っている。
「光洋精工で培ってきたものを、より大きなフィールドで挑戦させてくれたのがジェイテクトです。大海原のような環境の中で、自分自身を大きく成長させてもらえたと思っています」。
会社とは、単なる「働く場所」ではない。
そこは、時をともにし、経験を積み、人生そのものと重なっていく場所である。
光洋精工と豊田工機という原点を受け継ぎ、多様な価値観を内包しながら、変化を続けてきたジェイテクトの20年。
それは、一人ひとりの20年が織り重なって紡がれてきた時間でもある。
これから迎える次の20年もまた、誰かの人生とともに紡がれていく。
その物語の一頁は、今この瞬間から始まっている。
ここから先をどう描くのか。その問いへの答えは、すでにジェイテクトの社員一人ひとりの中に芽生えている。
想いをつなぎ、新たな価値へと変えていく力。
それが、これからのジェイテクトをつくっていく。


